one | list | cloud
ナイトクラブは300円
 1994年のカンボジアといえば、国連の暫定統治から独立したての頃だ。
独立したとはいっても、首都プノンペンでは武器狩りの検問をやっていたり、
タイとの国境付近にはポルポト派の残兵がいたり、道を外れると地雷注意の看
板があったり、まあちょっときな臭く、物騒な国だった。
 そんな所でも、一度はアンコールワットを見てみたいという好奇心旺盛なお
客様で、そこそこ賑わっていた。アンコールワットはシェムリアップという町
の郊外にあるが、当時シェムリアップへは、タイのバンコックから一旦プノン
ペンへ飛び、そこから国内線で行くしかなかった。いまではバンコックやホー
チミンシティーから直行便があるし、シーズンになれば日本からダイレクトに
行けるチャーター便もある。
 宿泊施設もショボいホテルしかなく、グランドなんかも床はしみだらけ、バ
スタブもなく、なんだか埃っぽい部屋だった。いまじゃラッフルズの運営で、
クレアあたりで最も採り上げられそうなおしゃれなホテルになっているが。
 早い話がシェムリアップという町は田舎で、世界有数の観光資源を抱えなが
ら、まだ受け入れ態勢は十分ではなかったということだ。
 この地に足を運ぶ人というのは、やはりアンコールワットが目的である。リ
ゾートライフやショッピング目的の人はやってこない。実は私は遺跡とかにそ
れほど興味がない。嫌いとかではなくて、うまく表現できないが、昔のものよ
り今のものの方が好きなタイプなのだ。寺より市場みたいな感じだ。ついでだ
が、自然にもあまり関心がない。自然が織り成す風景より、そこにいる人間の
ほうが面白い。こうした感性は添乗員としてあまり褒められるものではない。
 その私がジャングルの中から現れたアンコールワットを見た時、思わず鳥肌
が立ってしまったのだ。別に寒かったわけではない。アンコールワットはマイ
ブームみたいのがあって、この頃約10回にわたってお客様をご案内したが、
行く度に感動できた。
 建造物の大きさや荘厳さ、左右対称の美、日本人好みのちょっと苔むしたよ
うな色合い、彫刻やレリーフの美しさ、そしてなによりこの巨大な建造物が密
林から発見されたというミステリアスな世界。砂漠のピラミッドも悪くないが、
湿った東南アジアの空気が日本人に合っているのかもしれない。やはり日本と
東南アジアの国は、ある程度理解し合える共通の感覚があるように思う。イン
ド以西はまったく住んでいる世界が違う異文化の地。そういったこともあるか
もしれない。
 そんなアンコールワットの感動をかみしめ、皆さんでホテルのレストランで
食事を摂っていると、参加者の中でただ一人、遺跡に興味が沸かないタイプの
おじ様Tさんが、「どこかナイトクラブにでも飲みに行かないか」と言うのだ。
ここをどこだと思っているのだろうか。ナイトクラブなら帰りにバンコックに
寄った際に行けば良いではないか。「さっきバスから怪しい灯りを見た」とも
おっしゃる。事前調査にも余念がない。
 実はその怪しい灯りは私も気になっていた。あれはただのレストランではな
さそうだった。しかしここはシェムリアップだぞ。ナイトクラブに行くような
観光客も少なそうだし、ましてや地元の人がそんなところにいくか?
 こういった状況におかれたときは、まず行ってみることにしている。早い話
興味があったのだ。そうだ寺より市場、自然より人間だったではないか。自分
のポリシーを曲げぬためにも、ここはTさんの顔を立てていくことにしよう。
 ガイドのF君はプノンペンから同行してくれていた日本人だったが、夜の道
は危ないので、歩いていかずバイクタクシーで行こうということになった。彼
は遺跡の説明が抜群に上手だったが、ナイトクラブの案内は得意ではないよう
だった。ホテルから500mくらいしか離れていなかったはずだが、場所を説
明するのにちょっと苦労している。
バイク3台で行くつもりだったが、途中で離れ離れになってはいけないとい
う配慮もあってか、バイクの横にサイドカーとしてリヤカーをつけた変な乗り
物を見つけてきた。どうも人間を乗せるシロモノではなさそうだ。このリヤカ
ーにいい男が3人しゃがんで乗って、いそいそとナイトクラブへ向かったのだ。
Tさんと私が目撃した灯りはやはりナイトクラブだった。中に入ると生バン
ドというか、民俗音楽を奏でる楽隊がいて、民族衣装を着た女の子が歌を唄っ
ている。これはよくある観光客用の民族舞踊ショーの類ではない。当時カンボ
ジアではそういった音楽しかなかったということだろう。
ほとんどステージしか見えないくらい真っ暗で、どうもホステスらしい、チ
ャラチャラしたドレスを着た女の子が行ったり来たりしているの。なぜかテー
ブルに並びきれないくらいの料理を食べている、子供連れのファミリーがいた
りする。
いちばん後ろの方の席しか空いてなくて、そこはすぐ後ろがホステスたちの
控え席になっており、入れ替わり立ち代り後ろから肩をたたかれることとなっ
た。「私一緒に飲んでもいい?」なんて言っているのかもしれないが、なにせ
言葉が通じない。F君に通訳を依頼すると、どうもホステスはベトナム人が多
いみたいで、F君も良く解からないという。
それにしてもこのホステス達、室内が真っ暗なせいで、いすに座っている時
はまあまあ美しく見えるのだが、肩をたたかれるくらいの距離に来ると「今ち
ょっと忙しい」と言ってお断りするしかないような、ちょっと怖い世界があっ
た。
さてドリンクだが、Tさんはビール、私とF君はアルコールがだめなので、
コーラをオーダーした。30分ほど過ごし、さして面白くもないので帰ること
にした。F君に会計を依頼。追加オーダーをしなかったので、缶ビール1本と、
缶コーラ2本である。F君は栓を抜かずに飲まずにいたのだが、なんと返品が
きくらしい。
こういった一見の店では勘定が怖い。昔パリのピガール広場で10万円くら
い請求されたことがあるがここでは触れない。日本でも知らない街で、知らな
い飲み屋に入るのには勇気がいる。ましてや海外である。外人相手のボッタク
リは何度も経験済みだ。
震える手で請求書を見た。$2.80。
一瞬$280かと思った。なんと勘定は300円だったのだ。どこの世界に
女性がいて生バンドの演奏がついていて、3人で300円のナイトクラブがあ
るだろうか。3人はその話題で大いに盛り上がり、再びリヤカーにしゃがんで、
ホテルへ帰るのだった。
いまではシェムリアップはナイトクラブや変なマッサージ屋のネオンに溢れ
ている。

<<恐怖の撮影男 | 牡蠣は生に限る >>