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鴨に醤油
 商売をやっていても、会社勤めをしていても、役得というものがある。JRの
人は電車にただで乗れるし、デパートでは社員販売で安く商品が買える。八百
屋の息子は野菜食べ放題だし、警察官はスピード違反をしても捕まらない。外
務省の人はお金使い放題だし、医者の娘は病気にならない。
 それに比べて、旅行会社に勤務する人は役得がない。利益幅が小さいから、
安く行けるといってもせいぜい一割引。添乗員としてただで海外旅行が出来る
といっても、気を遣い体力を使いで、あまり面白くない。
 私のようにお客様と直接打ち合わせをして、自分で添乗する者にとっては、
世界の美味しいものを食べられることが、唯一の役得かもしれない。パッケー
ジツアーの添乗員は、めったに海外に行かない味音痴の企画者が立てたメニュ
ー以外食べられないので、お客からは文句を言われるし、自分自身も食欲が沸
かないし、とにかく悲惨である。予算だって信じられないくらい安い。
 旅行費用の多くを占めるのは飛行機代で、次に宿泊代、移動観光費用、そし
て食事代となる。日本より食事代の高い国はないので、どこへ行っても、わず
かな追加で見ちがえるような食事になる。物価の安い国へ行ったときは尚更だ。
 これは本当にお客様のことを思ってのことなのだが、そんな説明をすると多
くのお客様が、もう少しお金をかけて食事内容を良くしようか、ということに
なる。結果として、添乗員である私も美味しいものにありつける、ということ
になるのだ。
 世界の中でいわゆるグルメの国といえるところは意外と少ない。食文化の先
端のように思われているヨーロッパでも、フランス、イタリア、ベルギーくら
いだろうか。おまけでスペイン。アジアでは香港、タイ、シンガポール、台湾、
それに好き嫌いもあるだろうが韓国、こんなところか。
 もちろんどの国にも美味しいものはあるし、食の好みがある程度主観に左右
されるのも事実だが、ここで言うグルメの国というのは、国全体の食のレベル
が幅広く高く、多くの人が美味しいと感じる国、ということだ。
 フランスには、タイヤメーカーのミシュランが出版しているガイドブックが
あるが、ヨーロッパ中のレストランやホテルを、いろいろな尺度から採点して
いる。覆面調査員が食べ歩くとあって、妥協のない評価が売り物だ。レストラ
ンの味に関しては星の数で表すが、3つが最高である。3つ星のレストランは、
フランス全土でも20に満たない。星がひとつでも付いていれば栄誉なことで、
ましてや3つなど最高の誇りである。
 パリに『トゥールダルジャン』という3つ星のレストランがある。東京のニ
ューオータニにも支店があるが、この店の売り物は鴨料理である。昭和天皇が、
パリの本店で鴨を召し上がったことでも有名だ。パリっ子からは、観光客用の
店として陰口をたたかれたりもしているようだが、味はれっきとした3つ星で
ある。星の数は、格式や店の造りには関係ない。味だけの評価なのだ。
 この店に群馬県のロータリークラブの皆さんを案内したことがある。鴨とい
う素材の認識が変わるくらい美味しかった。参加者たちは、日本では名店を食
べ歩いている人たちだが、さすがに少し緊張気味のようだ。全員が鴨のうまさ
に、そしてシャトーパルメの芳醇さに酔いしれている時に、一人緊張をしてい
なかったH婦人が声をあげた。「この鴨、味が薄いわね。たかはしさん、醤油な
いかしら」。醤油の有無を確かめるまでもない。鴨に醤油をかけたら、ウェィタ
ーたちにどんな目で見られることか。
 H婦人は携帯用の醤油を持参していたことを思い出したようだ。ハンドバッ
クの中をさがしている。ああ醤油よ、見つからないでおくれ。私の必死の祈り
が通じたのか、醤油は出てこなかった。なんでもスーツケースに入れてあった
らしい。
 今にして思えば、あの鴨、醤油をかけて食べればもっと美味しかったかもし
れない。

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