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タクシードア欠落事件
 バンコックの交通渋滞は名物になっている。どのくらい名物かというと、ガ
イドブックに載っているし、ニュース番組でも取り上げられる。バンコックの
写真として、歩道橋から撮った大渋滞の写真が紹介されることもある。
 しかしよく考えてみて欲しい。東京の渋滞だってすごいぞ。ソウルだって、
台北だって、上海だって、デリーだって、そうだこの前行ったテヘランだって、
アジアの都会はみな渋滞名物ではないか。
 アジアだけではないぞ。ニューヨークも、パリも、カイロも。
 しかしなぜバンコックだけが非難の対象になるのだろうか。
 その一因として、信号の間隔の長さがあると思う。
 バンコックの大きな交差点の信号は、機械による自動運転ではなく、警察官
の手作業で行われている。黒いガラスで外からは見えないようになっている小
屋から、交差点の流れや、車の多さを判断しながら切り替えるのである。
 交差点の先が渋滞していたりすると、そちらに向かう信号をなかなか青にし
てくれなかったりするので、赤信号が10分くらい続くことも稀ではない。
 またなかにはやる気のない警察官がいたりして、頻繁に切り替えるのが面倒
くさいのか、空いていても青にしなかったりする。
 もう10年以上前のことだが、あまりにも待たされるので、ガイドがポリス
ボックスに行って「早く青にしてほしい」と、何がしかのチップを進呈したと
ころ、即座に通してくれたことがあった。今でもやってくれるかは判らない。
逮捕されるかもしれないのでお勧めはしない。
 そんなわけで、自動信号でも10分かかるかもしれない渋滞なのだが、ピタ
ッと動かないで待つ10分の方がいらだつではないか。渋滞していたという印
象が残るではないか。
 そんな大渋滞の中、スクンビットのソイナナをタクシーで走っていた。とい
うより停まっていた。
 アンティーク風のものを買いたい、というお客様3名と一緒だったのだが、
私は後ろの座席の真ん中に座っていた。
 目指す交差点は100mくらい先に見えるのだが、とにかく全く動かない。
面倒だからこの先は歩こうということになり、運ちゃんにその旨を伝える。料
金を払っているときに、左側のNさんがドアを開けた。日本以外の国ではタク
シーのドアは自分で開けるのだ。
 そこになんと、後ろから車の間をすり抜けて走ってきたオートバイが突っ込
んできたのだ。タクシーのドアが道路に落ちる。Nさんは「キミが注意してく
れないからだ」と私を責める。運ちゃんは青ざめている。
 オートバイの青年は、ヘッドライトが粉々になっているにもかかわらず、な
おかついきなりドアを開けたこちらが悪いにもかかわらず、「コートーコート
ー(ごめんなさい、ごめんなさい)」と言ってその場から去ってしまった。と
いうか逃げてしまった感じなのだ。
 多分、自動車とオートバイでは自動車の方が強い世界なのだろう。ましてや
当事者が外人ときたら、これはびびるのも無理からぬことかもしれない。
 オートバイの青年よりも落ちてしまったドアだ。運ちゃんは借り物を壊され
て当惑しきっている。補償はせねばなるまい。
 適当なタイ語が見つからない。というより私の知っている単語が30くらい
では会話は成り立たない。運ちゃんは英語はだめなようだ。もっとも私の知っ
ている英単語は100くらいなので、これもなかなか会話に持っていくのは難
しい。
 そんな環境の中Nさんは、「なぜあらかじめ注意しなかったか?」にこだわ
り続け、隣でそういった趣旨の発言を繰り返しておられる。あとの2人はタバ
コを吸って眺めている。
 熟慮に熟慮を重ねたがまとまらない。そのとき自分でも思いもよらないタイ
語が口から飛び出した。
「タウライ(いくら?)」
運ちゃんが腕を組んで考えている。おもむろに出した片手。ちゃんと指は5
本あるから、きっとこれは5,000バーツであろうと読み取れた。当時のレ
ートで約2万円である。
ドア1個が2万円。安いではないか。日本だったら10万円ではたりないだろ
う。タイは日本より自動車が高いのだ。このタクシーだって日本製だ。
こちらも腕を組んでしばし考え、おもむろに財布から現金を取り出した。そ
のときこれまた自分でも思いもよらない行動に出てしまった。
財布から500バーツ札一枚を出して運ちゃんに渡したのだ。たった2,0
00円である。運ちゃんは両手を合わせ「コップンカッ」と言っている。おい
おいキミに礼を言われる筋合いじゃないぞ。
この間、渋滞は全く進んでいなかった。

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